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世界に広げようEDAの輪! 第4回 Xilinx社 久村 俊之氏

連載コラム「世界に広げようEDAの輪!」の第4回目です。
第3回の庄田様のご紹介により今回登場頂くのは、やはり海外の地で半導体業界に従事している久村 俊之さんです。
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■世界に広げようEDAの輪! 第4回「ファブレスモデルとバーチャルリアリティー」
Xilinx社 久村 俊之

私は20年あまり、半導体というよりは、フォトマスクに従事してきた人間ですが、思い返しますと、このフォトマスクという原版、並びにそのマスクを使った半導体回路パターンのシリコンウエハへの転写技術は目まぐるしい変化を遂げました。この転写技術というのは、文字通り、原画を他に写し取るという印刷技術の延長にありまして、原画に忠実に、また短時間に大量に転写することが重要だったわけです。

私が働き始めた昭和末期には、まだ一部で手書きの回路図を手に、CalmaやAppliconといったCADツールでデジタイズ作業を行っておりました。デジタイズ後の出力データから、まずウエハ転写用に使われるマスクを焼き付けるための原版を露光装置で製造するのですが、そのマスク製造用の原版を拡大写真撮影し、撮影された色つきフィルム(カラーキーという)を、CalmaのGDSから等倍に出力されたプロットに重ね合わせて検図、検証を行っておりました。後述する現在のJDVと比べますと、隔世の感がいたします。マスク製造も当時は、設計パターンをいかに忠実にマスク上に再現するかに知恵を絞ったのですが、今はシリコンウエハ上にレーザー波長より小さい線幅を再現するため、マスク上にOPCなど元々の設計データには存在しないパターンが入ってしまっており、マスクの品質を評価するためには、ウエハ工場の露光条件を入手し、ウエハ転写イメージをシミュレーションしなければならない時代になりました。当時の印刷技術の応用のイメージはすっかりなくなってしまいました。

入社して2年、職場でかなり煮詰まってきましたので、お偉いさんにお願いして、シリコンバレーに転勤させてもらうことになりました。ベイエリアについては、シリコンバレーというより、スコットマッケンジーの「花のサンフランシスコ」(1960年代の末のベイエリア近辺のヒッピーやフラワームーブメントを象徴するヒット曲)のイメージを抱いておりましたので、カリフォルニアは自由で、毎日が希望とドラマに満ち溢れているはずと、心をときめかしながら、1990年の初夏にサンフランシスコに降り立ちました。

さて、シリコンバレー自体の印象は、「花のサンフランシスコ」とはかなりかけ離れていたものの(時代も違いますね)、この地は25歳で独身の私の期待を裏切らず、遊び好きの駐在員の先輩の指導もあって、毎日を輝いた新しいものにしてくれました。仕事の後には、毎日違うイベントが待っていて、野球を見に行ったり、平日からテニスやゴルフをしたり、近くのクラブでライブを聞いたりと、大変充実した毎日を送ることができたと思います。

この頃、この業界で一つの新しい流れが生まれました。「デザインハウス」がそれです。従来、IC設計とIC製造は同じ半導体製造メーカーが一環して行うものと決まっており、アメリカでもその工程の一部を外部委託するというビジネスモデルはありませんでした。しかし、この国の労働費、製造投資額は当時から年々膨らんでおり、いわゆる製造離れが始まっていました。その製造離れはまず後工程といわれる半導体組立から始まり、アメリカ大手の半導体メーカー各社も組立工場を台湾や韓国、フィリピンへシフトしていました。一方、前工程といわれるウエハ製造は半導体企業の技術の核と考えられており、この工程を外部委託する発想は存在しなかったのです。

しかし、多くの経営者たちが年々膨らんでいく工場への投資額に頭を悩ませており、特に革新的な設計思想を持った若きエンジニアが起業する大きな障害になっていました。米大手半導体メーカーから見向きもされなかった彼らが目をつけたのが、日本でした。80年後半、日本は半導体不況に苦しんでおり、工場は空き気味でした。優れた製造技術を持っていながら、自社製品だけで工場を埋めることができなかったのです。INTELやAMDなどいわゆるIDMも主力製品以外を日本企業に製造委託していましたが、目を引いたのは、CHIPS & TECHNOLOGYやXILINXといった製造工場を持たないデザインハウスでした。優れた製品開発力とマーケティング力を持つ反面、製造技術への投資を必要としない彼らは収益力が高く、急成長していきます。

ところが、社外の製品の製造を請け負う日本メーカーには、頭痛の種がありました。彼らの設計データ(GDSII)が日本メーカーの設計基準を無視しているケースが多々あったからです。そこで、私はまず日本メーカーから設計基準書(デザインルールドキュメント)を入手し、それをデザインハウスでも使われている市販のDRCツール用にコーディングし、米デザインハウスからリリースされるGDSIIに対し、日本メーカーの設計基準でDRCをかけるサービスを思いつきました。DRCの結果は、デザインハウスと日本メーカーの双方へレポートされますが、DRC違反を理由にデザインハウス側に設計修正を依頼するよりも、マスクデータ加工工程で日本メーカーの設計基準に合わせこむためのサイジング補正を加えることで問題を解決し、ウエハ製造開始までのTATを短縮するようにしたのです。 また、マスクデータ加工時のエラーを心配するデザインハウス側の要望に応えるため、現地にてJDV (Job Deck Viewing)と呼ばれるフォトマスクイメージで最終検図を行うサービスも提供しました。日本では、JDVの文化はまだ生まれておらず、米EDA開発のJDVツールを早くから採用しました。これらのサービスはデザインハウスと日本メーカーの双方から重宝され、ビジネスを急拡大することができましたが、個人的には、この時期に、日米双方の半導体業界で様々な方々と知り合い、語り合いながら、多くを学びました。今の会社へ入社したのも、親しくなったXILINX社の当時の幹部から誘われたことがきっかけになっています。

さて、最先端技術主体の製造請負(ファンダリー)ビジネスをリードしていた日本メーカーに転機が訪れます。90年代に入り、台湾のファンダリー専業メーカーが力をつけ始め、自社製品が足枷になり、技術的にもキャパの面でも柔軟性を持てない日本メーカーのファンダリービジネスは徐々に衰退していきます。95年ごろから、米半導体企業の製造離れは益々加速し、前工程を台湾ファンダリーへ委託するところが増えてきました。また、超円高を背景にDRAMやASICの米国生産を開始した日本企業は結果として、時代の流れに逆行する形となり、経営状況が悪化していきます。私の米国でのマスクビジネスも雲行きが怪しくなってきました。そこで、とりあえず、アメリカ駐在を終え、年齢も30に近づきましたので、日本で結婚し、新天地へ目を向けることになりました。米駐在時代のビジネス敵は、ある意味で台湾ファンダリーTSMCでした。私がサポートしていた日本ファンダリーのビジネスは、内作マスク工場を持つTSMCに攫われてしまいました。台湾には当時最先端技術を持つマスク工場がないことに目をつけ、台湾にマスク製造の新会社起こすことで再起をかけることになったのです。

96年、初めて台湾の地に足を踏み入れた時、なんとも懐かしい気分になりました。幼い自分が、実家の近くの、今は住宅地になってしまった森の中で昆虫を追い求めて走り回っている夢の続きを見ているような。台湾の人と少し親しくなると、「うちにご飯を食べに来て」と誘われます。ご飯を囲んだ食卓では、大勢の人が私を迎えてくれます。おじいちゃん、おばあちゃん、赤ちゃんを抱えたおばちゃん、近所の人たち。日本でも昔は、よく知らない近所の人がステテコ姿で一緒にご飯を食べていました。帰りがけにおばあちゃんが、綺麗な日本語で、「またご飯食べにいらっしゃい」、あれ、このおばあちゃん、昔どっかで会ったような、果たしていつ、どこでだっけ。台湾は、長い年月私の記憶の奥底にしまわれたままになっていたかつての日本の風景と幼かった自分を蘇らせてくれるのです。

仕事の方は、全く知らない地で、会社を設立し、工場を建てるということで、コンサルティング会社のサポートを受けながらも、細かい点で日々、プロジェクトチームのメンバーと頭を悩ませました。例えば、工場申請の認可の過程で、地元の役人に心づけを送るべきなのか。台湾は先進国の仲間入りをしていながらも、古い習慣が地方には残っているので、その辺の見極めに難しい面がありました。工場の従業員たちとの交流においては、楽しいことも、辛いこともありました。若い従業員達の結婚式に出る機会が多かったのですが、一度従業員のおかあさんの盛大な誕生パーティー(地元のコミュニティーセンターに100人あまりが招待された)に呼ばれた折、ストリッパーが出てきたのには驚きました。台湾の人たちは、陽気で、人懐っこい人が多いのですが、一方、激しい面もあり、工場内で、従業員グループ間のいがみ合いが起こった時などは、その解決に苦労しました。しかし、ハイテクバブルが弾ける前の、まさにイケイケの時代に台湾駐在の経験し、私の楽観的な性格に拍車がかかったような気がします。

現在の職場でのファンダリーメーカーとの日々のコミュニケーションは、結婚式を控えた私と妻のやり取りを思い起こさせます。
日本で実際に式の準備を執り行っている妻に電話で進捗を聞きながら、必要な指示を出していく。たまに意見の食い違いもあるけれど、妻が何に苦労しているのか、ぐっと我慢して聞き出そうとする。結婚式に対するイメージの多少の相違に気がつきながらも、妥協点を見出すためにお互いに努力する。距離のあるコミュニケーションは難しい。まず相手が持つイメージをうまく想像できません。現在の仕事においては、EDAツールのお陰でシリコン上の転写イメージをシミュレーションし、ファンダリー側と共有することができます。当時、結婚式のイメージをお互いにシミュレーションできる共有ソフトがあったなら、準備もずっとスムーズに進んだことでしょう。しかし、過ぎてしまうと様々な誤解も懐かしい思い出になりますね。

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次なる第5走者は、学生時代は自転車競技選手、現在は現役の大回転スキー選手で、サーファーでもある体育会系エンジニア、高橋資人氏です。20年来のお付き合いをさせてもらっていますが、その多趣味なことと、各方面に広がるネットワーク、バイタリティーには常に敬服しています。
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<筆者プロフィール>
 久村 俊之(ひさむら としゆき)
 Xilinx, Inc.
 Senior Manager, Tapeout Operations, Silicon Technology Group

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 略歴
 1987年 凸版印刷(株)入社 
 1990年 フォトマスクビジネス拡販のため、シリコンバレー駐在
 1997年 フォトマスク製造会社 中華凸版電子(株) 立ち上げのため台湾駐在
 2000年 Xilinxに転職。シリコンバレーに家族で移住、現在に至る

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【世界に広げようEDAの輪!バックナンバー】
第1回:「私が初めて"世界"を感じた時」 TOOL株式会社 本垰秀昭氏
第2回:「EDAからの恵み」 Chartered Semiconductor 吉田 秀和氏
第3回:「「プロセス開発側から見たEDA、そして、アメリカでの仕事を通じた経験」 Novellus Systems社 庄田 尚弘氏

 

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